金子千尋の「高校で一番つらい時期」、恩師の言葉が救う

Source: asahi

 

「あれは賢い子でした。監督として苦労したということが、ほとんどない」

山寺昭徳(72)は開口一番、そう語った。長野商の監督時代に教えた投手・金子千尋(34)=現プロ野球オリックス=の印象だ。

今や日本球界のエース格に上り詰めた金子の代名詞は「七色の変化球」。たぐいまれな技巧を駆使する頭脳派投手として知られる。「自分の直球ではプロで通用しない。いかに打たれない投球をするか。金子だからこそ、工夫を凝らして今の投球スタイルを編み出せた」と山寺は見る。

かつては、直球でぐいぐい押すタイプだった。

長野市の中学時代に所属していたリトルシニアチームが時折、長野商の室内練習場を借りていた。3年のとき、「直球の切れの良さに引き寄せられた」と山寺。進学先は決まっていないというので「公立の星にならんか」と声をかけた。入試の合格者名簿を見ると、その名があった。

球威ばかりか、制球力が抜群。足も速く、野球センスは申し分ない。1年の夏にも登板させたい衝動にかられた。一方で、身長171センチ、体重60キロはプロ13年目の現在を下回ること9センチと17キロ。「高級車クラウンのエンジンを搭載した軽自動車」とも形容された「青白い文学青年」は、成長期に生じやすい体の痛みが悩みの種だった。

山寺は決断し、通告する。「お前のデビューは1年秋の新チームだ」と。そして、チームメートより軽めの練習メニューを与えた。「量は少ないが、手を抜かず本気。だから、仲間から浮くことはなかった。それも賢さでしょう」

その1999年秋、長野商は北信越大会に進出。準決勝で金子は高岡第一(富山)を延長十二回、1―0で完封する。ボールぎみの低め直球が伸びる見逃し三振も多く、「高校時代の金子のベスト試合」と山寺。

翌春、古豪・長野商は68年ぶりで選抜甲子園に出場する。1回戦で岩国(山口)に延長十回の6―5で競り勝ち、2回戦では鳥羽(京都)に6―8で惜敗。新2年の金子は2試合とも救援で登板を果たした。

夏も甲子園に、と意気込むチーム。だが、金子には「高校時代で一番つらかった時期」が訪れる。右肩痛で投球できなくなった。

消沈する金子に山寺から指示が出た。走り込みの徹底だ。後に金子は「今は神様が『走りなさい』と言っているんだ、と教えられて納得した」と話した。重要な局面で示された恩師の的確な指導に感謝し、今も走り込みの大切さを説く。

試練を脱した金子だが、その夏の長野大会では決勝で松商学園に「あと1勝」が届かず、3年の夏は優勝した塚原青雲(現松本国際)に準決勝で屈した。

選抜出場記念誌『凱歌(がいか)再び』に残した「夢の舞台のマウンドは最高だった。また、あのマウンドで投げたい!」という願いに球運が応えることはなかった。

「金子の投球で注目するのは右ひじ」と山寺は言う。腕を振り上げるとき、理想の直角形になっているのだ。「当時から金子はできていた。高校生はぜひ、見習ってほしいですね」=敬称略(山田雄一)

やまでら・あきのり 1945年、旧塩田町(現上田市)生まれ。甲子園出場は、丸子実(現丸子修学館)2年春に1度、監督では丸子実で3度、長野商で1度。2011年の上田西を最後に引退。中央大卒。

かねこ・ちひろ 1983年、新潟県三条市生まれ。小学4年で長野市に転居し、99年に長野商入学。トヨタ自動車を経て、2005年オリックス入団。最優秀選手、最多勝利、最多奪三振、沢村賞など受賞。

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